unodeagosto’s blog (8月1日のぶろぐ)

なんども繰り返しやってくる、8月1日。

音楽にお金を払ったという体験も思い出になるという話し

買うという体験も心に残り続ける

単純に、娯楽にはしっかりお金払おうって話し。クリエイターにお金を流すという合理的な経済の話しと、言ってることは同じだけれど、自分にとって、その人にとっても合理的に良い体験だってことを感じたから書き残しておきます。

考えたら、中学生の頃はじめてCD買ったときの感動ったらなかった。ナムコゲームミュージック超絶倫人ベラボーマンが入ってた。どっかに探せば今もあるはず。実家かな…。

「ベラボー参上!」ってあのフレーズ。ゲームセンターでしか味わえないと思ってたあの頃。その体験を手に入れた、あのワクワク。ベラボーマンは、のちにPCエンジンにゲーム移植されますが、今思えば、ゲームセンターという臨場感、ビデオゲームと呼ばれる筐体の魅力は、単純な移植とはまた別の話しだったなとわかる。話が逸れるのだけれど、少し補足して書きます。人は、身の回りの環境も含めて感情に強く影響を受ける。これは、大人になって感じた確信。

自宅で体験できることがダメなわけではない。何を言いたいのかというと、自宅での体験と、ゲームセンターでの体験は、環境的にまったく別物ということ。それぞれが大事な体験です。

たとえば、僕は、セガサターンで「バーチャファイター2」に熱狂した世代です。学生なのに、いや、学生だからか、朝まで延々と友達とバーチャファイター2をやり続けた思い出は、今現在も残り続けてる。ゲームセンターは、100円硬貨にこめた、緊張感。公式試合をしてるような感覚。見知らぬ人との戦い。娯楽のはずなのに、余裕のない緊張感。自宅も、ゲームセンターもどっちも、今も残る体験ってことです。たとえを、たとえで補足するのは、わかりにくいですね、申し訳ない。

 

無料が得だと思い込んでるけど、失ってるものがある

話しを音楽を買うということに戻します。音楽でもゲームでもよかったのだけれど、ネットで気軽に、中学生の頃よりも手軽に音楽に触れられるようになったから、ふと感じたことを書いておこうと思った。

中学生の頃にお小遣いを使って音楽を買ってた思い出がある。CDショップで、吟味して、お金を払って、自宅のステレオデッキに入れるまでの緊張感。あの頃の記憶を思い出そうとすると、寂しさのような切なさのような、もう戻れない、あの喜びを思い出す。何度も繰り返し、ステレオデッキのイコライザをいじりながら、最適な音を探しながら聴いた思い出。音楽を大切に取り扱ってたようなあの頃の思い出。

 

セラピストの言葉で、ずっと心に残ってる言葉があって、それは「物事には、常に得るものと失うものがある」ってこと。

Youtubeは曲の確認に便利です。それはそうだと思う。Youtubeで音楽チェックした日々だって、思い出になるんじゃないの、とも思う。それが当たり前のようになってる、デジタルネイティブにとっては、音楽はそのくらい自然なものなんだろう。選択肢として、ほかにないくらい、自然な行動。

と同時に、CDショップで音楽を手に入れるという体験もまだ手に入るのが僕らの時代。ネットで聴きたい曲だけ手軽に手に入ることも、同時に存在してる。選択肢はたくさんある。体験のしかたも複数ある。

 

言いたいことは、誰かと感動を共有してくださいということ

この記事を書いてて、けっきょく自分は何を言いたいんだろって考えたのだけれど、たぶん言いたいことは、あなたの体験を誰かに話しして伝えることが、人間の生きる理由なんじゃないかってこと。だから、はじめに自分がナムコゲームミュージックのCDの話しをしたんだろうって思う。

恋愛にも似た、へんな感情を、人に話したような気分ですが、あなたの個人的な体験を、誰かと共有してください。それだけでいいんだろうな。きっと。